2000 年 9 月

 益体もない読書感想文ばかり書いているような気もする。


9 月 1 日 (金)

 佐藤亜紀『1809 ナポレオン暗殺』(文春文庫)を読了。 解説は福田和也で、帯にまで「福田和也氏激賞!」と書かせているのは、 さすがにこれはズルイんじゃないかしら。

 主人公であるフランス軍工兵隊大尉がナポレオン暗殺の陰謀に巻き込まれてゆく、 というお話なのだが、結末は史実に忠実 (?) である。 しかし主人公パスキ大尉が、 物語が展開してゆくにつれ自身の置かれている状況を徐々に理解してゆき、 如何にしてこれに対処してゆくかという展開は実に知的かつスリリングであり、 下手なミステリィ小説なんか読むよりもずっと刺激的。 とはいえ、最後で暗殺の動機を告白したウストリツキ公爵の魅力に対して、 対峙するパスキ大尉の方はなんかよくわからん奴に落ち着いてしまった、 という気がしないでもないが。やはりそれも潔くていいのかも知れない。

 しかし福田和也氏の解説は本当に上手いなぁ、褒め方が。 久々に文庫の解説読んで得した気分になった。 以前島田雅彦の『彼岸先生』(新潮文庫) を読んだ時、 解説者が作品を論じているかのように見せて、 結局自慢しかしてないのには非常に腹が立ったのだが、全くエライ違いだ。

9 月 6 日 (水)

 『ダ・ヴィンチ』10 月号を読んだのだが (といって隅から隅まで目を通したわけではない……そんな奴はいないか)、 森博嗣の連載小説『奥様はネットワーカ』がミステリィとして展開していたのには、 ちょっと驚いた。別に真面目に読んでたりはしないけど。

 そんなこんなでいきなり思い当たったのが、森博嗣の情景描写における文体は、 漫画の「ネーム」そっくりなんじゃないかということ。すなわち、絵が無い漫画。 殺人の描写などといったある程度緊迫した場面の描写では必ずといっていい程、 一つ一つが無茶苦茶短い文章がひたすら改行されながら続いているのだが、 こういうのを読んでいると「漫画のコマを一つ一つ追いながら進行している」 ように思えてならない。

 一文一文を短くし、 かつ改行を多く入れることで緊張感を出そうとする手法は、 他の作家でも時々使っているけれども、 森博嗣の場合はそれと比してもかなり「漫画的」だと思う。 単語一つや二つ程度 (しかも体言止めだったりする) で一行使うというのは、 映画でのワンカットという単位よりもずっと細切れな感じがするし、 漫画で小さいコマを適宜割り当ててゆく感覚と非常に近いものだと思う。 まあ、氏がかつて漫画を書いていたということを知っていれば、 別に不思議でもなんでも無いのかもしれないし、 漫画に親しんだ世代ならそれほど違和感を感じないかもしれないから、 どうでもいいことかもしれない。 それよりも僕としては、登場人物が皆同じように理屈っぽくて区別がつかないことや、 まるで観念詩を読まされているような地の文、 そしてなによりも、 現実社会との関わりをはなから無視しているとはいえどもあまりにも荒唐無稽な展開 (『月は幽咽のデバイス』を読んだ時は、 「まるでオリンピックスタジアムを凶器にするかのようだ」と感じた) の方が、これよりもずっと気になるのだが……読まなきゃいいのか。

追記: 古いメールを整理していたら、 既に 2 月 16 日の時点で、saikawa 氏 (M1) が『月は幽咽のデバイス』に言及して、 「少女漫画を小説にしたような感覚」だと述べていたのを思い出した。 上述と同じことを言っているわけでもないんだけど、 そうか、わかる人はとっくにわかっていたのね。(9/10)

 上とは別に関係ないけど、久々に書店で眺めた『新ゴーマニズム宣言』 (SAPIO に連載中) は滅茶苦茶文字が多かったなぁ、漫画のはずなのだが。 あれで面白ければまだいいのだけれども、今では全く読む気がしない。 小林よしのり氏の言っていることはともかく、 既に絵の方までもが抑制が効かず下品なものとなってしまった現状ではねぇ。 少なくとも『戦争論』までは、グロテスクな描写はかなり抑えられていたんだけど、 いつだったかチベット問題を扱っていた章で、 中国軍の残虐行為をなんだか嬉しそうに延々と描いているのを読んだ時には、 さすがに漫画として下品すぎると思ったのです。 最後では中国の脅威とチベット人への同情を訴えてこの章は終っているのだが、 これではまるで、民衆に地獄絵図を見せながら「仏門に入らねば、地獄に落ちるぞ」 と説くインチキ坊主と同じじゃないか。なめるんじゃないっての。

9 月 7 日 (木)

 昨日新宿の青山ブックセンターで発見した『皆殺しブック・レヴュー』 (佐藤亜紀×福田和也×松原隆一郎、四谷ラウンド) を読了。 いやぁタイトル通り、相手構わずケチョンケチョンに貶してますな。 福田氏の著作 (例えば『人でなし稼業』とか) や、佐藤氏の Web ページ (「新 大蟻食の生活と意見」) を知っていれば、これ位は普通だ、まだまだ甘いぜという気もするが。

9 月 9 日 (土)

 文春新書『二十世紀 日本の戦争』 (阿川弘之・猪瀬直樹・中西輝政・秦郁彦・福田和也著、文藝春秋読者賞受賞) を読了。 今世紀の日本に大きな影響を及ぼした戦争 (日露戦争から湾岸戦争まで) を検証した対談を単行本化したもの。

 話者 5 人の立場は、 概ね「日本の戦争のやり方にはムチャクチャなところも多かったが、 どう悪かったのかを冷静に考えなければ、 よかったところまでも見逃してしまうし、今後への教訓など得られない」 という点で一致している。 そしてこの視点から「もしあの時こうしていれば」という想像を巡らせる、 といった歴史の if に関する思考ゲームもふんだんに行われており、 なかなか興味深く読むことができた。 しかし日本が第一次大戦の教訓を全く学ばず、 その結果泥沼の太平洋戦争にまで至ってしまったという過程においては、 そのほとんど全てを半面教師にするしかないようですな。

 阿川弘之氏の実体験に基づく発言がまた結構面白く、 戦争当時の雰囲気がよく伝わってくる (しかし同時に、「結局歴史に if はない」 ということも裏付けられてしまうのだが)。 最後で湾岸戦争から現在までを扱った章では、 それまでの議論と比較して話者同士の意見の相違が大きくなり、 やや発散気味になってしまっている感があるが、これは仕方無いか。


 一昨日くらいだったか、 NHK で脳死臓器移植ドナーの遺族の会に関する短めの特集を見た。 この会を設立した男性は、留学中の娘さんがアメリカで脳死状態になってしまい、 彼女が臓器提供の意思表示を示していたため臓器提供を決断した、 という体験をした人である。しかし僕が見た限りではこの親父さん、 臓器提供という体験によってかなりの精神的ダメージを受けているように思えて、 したがって実に痛々しくてならなかった。 これは失礼な言い方かも知れないが、 近頃よく報道されている (これもこれで痛々しいのだが)、 悲惨な事件に遭われた被害者の遺族の姿とダブってすら見えたのである。 あるいは戦没者遺族の会かもしれないが、 いずれにしても遺族としてどうにも割り切れないというか、 やりきれない思いを抱いているという点では近いものがあるのではないか。

 こういうことを考えてもやっぱり、脳死臓器移植って、 やらないほうがいいと思いますよ。 脳死とされるドナー側に関しての問題もあるけれども、 残された遺族の側にしても、「究極の善意」とか「○○は他人の中で生きている」 とかいったゴマカシの言葉など全く意味をなさない、 というのが実によくわかる。特に日本ではね。 この親父さんは会を設立する前に、 娘さんが名誉卒業ということになったので渡米していたのだが、 おそらくあちら側の持て成しや言い分では、 結局何ら救われることはなかったのだろうとご推察します。 臓器を提供することによって他人の命がいくら救われるとしても、 一方ではこういう形でギリギリのところまで追いつめられる人も出てくるというのは、 果して正しいことだといえるのかしら。

9 月 10 日 (日)

 日本テレビ系列で日曜 6:30 から放送されている、 『独占』なんとやらというスポーツ番組、 その中で徳光和夫と長嶋一茂の両氏が巨人の試合中継をバックにされながら、 とても素敵な与太話を屈託もなく喋り散らかしておいでになる時がございますが、 いくらなんでもこれはさすがに、よろしくないんじゃないでしょうか。 悪いことはいいませんから、お止めになられた方がいい。 このままでは近年数多ある最低テレビ番組の中でも、 他を寄せつけずぶっちぎりの優勝間違いなしではないか、 などと小心ものの私としては、少々心配になってしまうのです。

 日本テレビ様に限らず、 その程度に差はあれどほとんど全てのマスコミが巨人翼賛メディアであるというのは、 これはこれで確かなことではありますが、 とはいえこの番組での御二方ほど上品なことをおっしゃられる人となると、 さすがにそうそうおられません。 御二方それぞれの脳幹辺りで発生したとしか思えない、 何やら個人的な願望とも妄想とも判別しがたい恥知らずの巨人讃歌が、 大脳でのチェックなどするりと通り抜けて音声と化してしまい、 またそれがあろうことか公共の電波に乗って私達の下に届いてしまうなんて、 なんて素敵な悪夢だろうとしか言いようがありません。 「謝罪しろ」なんて下品なことは申しませんが、 とにかく即座にお止めいただきたい。 良心的な一巨人ファンの私としては、只々そう願うばかりなのでございます……

……というか、本当にひどいよこの番組。徳光なんて、 『24 時間テレビ』中の巨人戦中継でも暴走してたし。 「だったら見るなよ」っていう噂もあるけれど、 試合中継映像には罪はないしなぁ。音声消せばいいってか?

9 月 11 日 (月)

 今更何言ってるんだという気もするが、満員電車ってやっぱり辛いわ。

9 月 12 日 (火)

 辻仁成 (「辻」は本当は点二つ) 著、 『白仏』(文春文庫、仏フェミナ賞受賞作) を読了。作者の祖父をモデルとした一人の男が、 人間の生死を見つめながら明治・大正・昭和という激動の時代を生き、 そして自分の死を前にして、島中の人骨を集め仏像を造ろうと思い立つ、 というのが大まかな粗筋である。しかし、主人公が家族や友人の死を受けて、 人間の生死について思い詰めていった結果が白仏制作であるというのは、 正直言ってわかるようであり、わからなくもある。 既視感や幻視などの神秘体験までも取り込んだ結果としての個人的な生死観と、 島中の全ての人間 (それこそ遠い昔に死んでしまった人から、 未来に生きる人まで全て) を巻き込んでの白仏制作とが、 このような変則的な伝記という形で無難にまとまってしまっていいのか、 という点で少々不安を感じてしまうのは、果して僕だけなのだろうか。

9 月 14 日 (木)

 電車で帰宅中、隣に座り込んで来たバカップルは、ありゃ凄かった。 男性の方はやや情動失禁気味なのだろうか、 女性が携帯電話で使用できる着メロについての蘊蓄を披露するたびに、 一車両中に響くほどの大きな声で「すげー」「すげー」「すげー」 「なんでこんなことできんの」などと断続的に叫びまくる。 そりゃ、携帯電話でいろいろ遊ぶのもそれなりに楽しいだろうけどさ、 義務教育を受けたはずなのにも関わらず、 オモチャをあてがわれた幼児みたいに場所をわきまえずはしゃぎまわるのは、 頼むから止めてくれって。


 NHK のニュースの中で、 日本の喫煙率の高さと禁煙対策の遅れを指摘する特集があった。 まあそれはそれでいいんだけれども、 アメリカ女性の視点から日本の現状を批判するという月並な図式、 そしてあろうことか彼女に「日本は安心して暮らせる環境がまだまだ整ってない」 とまで言わせたのは、これはちょっとねぇ。 確かに最近物騒になってきたかもしれませんが、 それでも犯罪大国アメリカと比較すれば、 日本はまだまだ平和だし安心に暮らせる状況ですよ、 ってそういう話じゃないか。

 正直言うと僕自身はここ数日、 そろそろ禁煙したほうがいいのではないかと思い続けているのだが、 まだまだ実行には至らない。 最近舌の先の方にちょっとした刺激を感じるので、 さすがになんかヤバいんじゃないか、 これは煙草を控えた方がいいかも知れないという不安を感じているのだが、 しかし既にどっぷりとニコチン中毒なのだわ。


 シドニーオリンピックのサッカー予選 (日本 vs 南アフリカ) を NHK の録画放送で見たのだけど、 いくら鈍感な僕といえどもさすがに、 実況アナウンサーのあの舞い上がりっぷりにはまいっちゃったなぁ。 1 分くらい「ゴール」って叫びっぱなしのやつだが、 あれは聞いている方が恥ずかしい。ちなみに、 僕は個人的にはスポーツ中継は大好き (というか、最近それとニュース以外ではほとんどテレビを見ない) ですが、オリンピックというものに関して過剰に期待するつもりはありません。 選手の皆さん頑張ってね、とは思うけれど。

9 月 17 日 (日)

 今朝の読売新聞朝刊の「メディア時評」欄に、 フジテレビキャスターの木村太郎氏が 『新聞だけができる「時代の底流」報道』と題して寄稿していた。 氏が深夜枠から夕方のニュース番組に横滑べりで移ったという経験を踏まえて、 テレビの方が新聞よりも感覚的に訴えやすいため、 視聴者にわかりにくい番組作りは避けられる傾向にあるが、 これはテレビというメディアの向き不向きによる問題なのだろう、 したがって新聞に対しては「時代の底流」のごとき硬派な報道姿勢を期待する、 などといった趣旨の発言をなさっている。しかしこれ、 よく考えるまでもないけれど、随分へんてこな理屈だなぁ。

 視聴率やらなんやらを過度に重視するというマスメディアの姿勢が、 対象が老若男女誰だか定まらぬがゆえに下らない番組を作らざるを得ない、 という現状をこの評論では批判するどころか、 むしろ積極的に擁護しているとしか思えない。 そしてこういう点ではテレビも新聞も同じ穴のムジナであり、 どちらも万人向けのつまらないことばかり報じているという点では、 なんら変わるところはないのだから、 テレビと新聞との報道役割の分担なんて図式など成り立つはずはないのでは。

 しかし確かに、今フジテレビで夕方にやっているニュース番組って、 『ニュースステーション』なんかよりもずっとひどい状況 −− 2 時間枠の半分以上が、バラエティやワイドショーになっている −− だけど、 その言い訳がこんな屁理屈でしかないとするならば、 やはりマスコミの良心に期待する方が間違っているんだろうな、 いまさらという気もするが。

9 月 21 日 (木)

 帰宅途中の相模大野駅ホームで、 取っ組み合いの喧嘩やってる野郎二人を見ちまったよ。 茶髪の若者と中年の男が激しく罵りあったかと思うと、 いきなりお互いに袖をつかみ合い、 組み合った勢いでそのまま地面に倒れこみ、 若者がマウントポジションを維持したまま駅員が来るまで膠着状態。 ううむ、こいつらオリンピックの柔道中継を見すぎたのか?

9 月 22 日 (金)

 すごいや、 昨日の森総理の所信表明演説、「E - ジャパン」と来ましたか。 例え思いついていたとしても、 普通の人ならばそのネーミングセンスの安易さゆえ口にするのを憚られていた言葉を、 こんな形で堂々と言っちまうとは、さすがは森総理、面目躍如といったところか。 すでにお偉い方々は皆「IT 革命」で頭の中身がパンパンになっちゃってるようだけど、 さすがにこんな空虚な合い言葉で、日本国民が糾合されちゃたまんない。 でも所得倍増とか日本列島改造ならともかく「E - ジャパン」なんて、 何がどう変わるんだか具体的なイメージが全く思い浮かばないからな、 知らないふりしとくのが吉か?

 あまり関係ないけど、 参議院選挙の非拘束名簿方式が問題とされているようで。 でも僕はもう選挙に行く気はないから、どうぞご勝手にと言ったところか。 『ニュースステーション』でだったか、 全国区選挙ということであちこち忙しく飛び回っている議員の方々の姿を見たのだが、 あれではこういう選挙という制度で選ばれた政治家に対して、 「真面目に政策とか国際情勢とか考えろ」というのは無理な話でしょ。

9 月 23 日 (土)

 オリンピックではサッカー負けた、野球も負けた。 巨人はマジック 1 で足踏みだけど、こちらはどうでもいいか…… オリンピックもどうでもいいけど。しかし日本サッカー代表、 アメリカの馬鹿単純なパワーサッカーにあれ程までに圧倒されているようじゃ、 ワールドカップがどうだの言ってられませんな……こちらもどうでもいいんだけど。

 ああ、なんか投げやりだわ、いかんいかん。 いくらひどく疲れる生活を続けていても、 せめて頭だけはトロけてしまわないように気をつけているつもりなのだが。

9 月 24 日 (日)

 やっぱ歳なのかしら、なんか疲れがとれにくくなってきたな。 平日休日問わず、暇を見つけては (というか、天気さえ良ければ) ジョギングしているのだが、どうもあまり旨いやりかたじゃないのかも。

 しっかし、今日の巨人の試合は、ありゃ凄かった。 まあマジック 1 ということで、 今日負けても優勝は間違いなかったんだろうけど、 それでもああいう無茶苦茶な勝ち方はないよなぁ。 思わず「ば、バカなぁ!」ってテレビに向かって叫んでたもん。 ああ、何だかんだ言って所詮は巨人ファンであることを免れ得ないのか。

9 月 25 日 (月)

 電車の中で、新聞を縦四つ折りか六つ折りくらいにして、 指に唾をつけてページをめくり、 顔を紙面すれすれに近づけてまでして真剣に読んでいる男性を見つけてしまいました。 これだから、電車というものは面白くて止められない (なにか間違っているぞ)。 初め気づいた時には株価欄を読んでいたから、 「そうか、株やってんのか、ならば、さもありなん」とばかり思っていたのだが、 次に見たときにはスポーツ欄を同じような調子で読んでいたから、 ちょっとびっくり。新聞なんて、そんなに隅から隅まで読む必要はないと思うのだが。 ちなみに僕が新聞読む時、真っ先に目をつけるのは書籍の広告欄だったりして。 電車の中吊広告を眺めるのと同様、いい暇潰しにはなりますから。

 そんなこんなで、クラウゼヴィッツ著『戦争論 (上)』(岩波文庫) を読了。 我ながら「なんでこんなの読んでんだか」って気もするが、 毎日 4 時間近く電車に揺られなければならない身の上ゆえ、 少しでも読みごたえがあり、かつかさばらない書物を必要としているわけで。 それでもなんで『戦争論』なのか、と疑問に思われたとしたら、 「僕は最近、19 世紀のヨーロッパ事情に少なからず興味を抱いているのです」 というくらいに答えるしかないです (『1809』の影響は否定しませんが)。

9 月 26 日 (火)

 土屋賢二著『われ笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫) を読了。 以前から妙なタイトルが気になってはいたのだが、 『皆殺しブック・レビュー』で『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』 が好評だったということで、思い切って本書とともに購入した次第。 一応哲学エッセイ集ということなのだが、しかしこれがどれもこれも無茶苦茶面白い、 バカバカしすぎる。中でも僕が (個人的に) もっとも面白いと思ったのは、 「人気教授になる方法」と題されたエッセイで、 これは電車の中だというのに大声で吹き出してしまいそうになったほど。 さすがに社会人だということで懸命に堪えようとはしたのだが、 結構つらいものがありましたわ。 全身が汗ばむ程に力を込めて必死に我慢したにもかかわらず、 どうしても顔面がだらしなく揺るんでしまい、恥ずかしかったことこの上なし。 このときは恐らく、周りの乗客も「なんじゃこいつ」って気持悪かったことでしょう、 もし気づいていたらの話だが。 確かに僕もこれまでに電車の中で、 談笑しているわけでもなく独りで笑っている奴を見たことは記憶にないからな。

9 月 27 日 (水)

 というわけで昨日に引続き、 土屋賢二著『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』(文春文庫) を読了。 前著で耐性がついていたせいであろうか、 昨日のようにヤバい状況にはならなかったが、それでもやはり面白いのは確か。 しっかし前著もそうだったが、 女性がこれ読んだら十中八九、大激怒するだろうな。著者の妻を筆頭に、 世の中の女性全てを罵倒し、散々馬鹿にしまっくている。 それ以上に世の中の男性全てを、 そして何よりも自分自身を散々こきおろしているけど。ま、 これくらい毒がないとジョークとして楽しめないのも確かだということで。

9 月 28 日 (木)

 むやみに忙しかったりして。家に帰りついたのが、午前零時近くになるとはな。 しかも学生の時とは違って、 朝八時くらいから起きているから、こりゃ辛いのなんのって。

9 月 29 日 (金)

 最近故あって RedHat Linux 5.2 (古い) や 6.2 を使わねばならないのだが、 やっぱり面倒だなこいつら。RedHat 5.2 を初めて触った時、 /etc の下がかなりごちゃごちゃしててわかりづらかったのだが、 「ええい、面倒じゃわい」とか言いながら現実逃避で X の設定をすませたら、 GUI 管理ツールが画面の左端にちゃっかり御登場ときたもんだ。 でもこれも使いやすいようで、結局わかりにくいんですけど。

 それでも、Windows 2000 Server を死ぬ気で管理することに比べれば、 なんてことはないように思える。Active Directory なんて、 いまだによくわかってない (のは秘密にしなければならない) んだけど、 適当にドメインコントローラでっちあげて動かすだけなら、 ヤマカンチョップでなんとかなっちゃってるし。でも危険だな。

9 月 30 日 (土)

 なんでせっかくの休日に限って、雨が降ったりするんだか。


[上に戻る]
Takayoshi OHNISHI
ohnishi@sfc.wide.ad.jp
Last modified: Sun Oct 1 22:58:03 JST 2000